有意義な夏休みについて

8/10現在、私は絶賛夏休みの渦中にある。久方ぶりのブログの更新に少々の懐かしささえ感じるほどである。

日報

個人的に日報を書き出す程に1日の密度は希釈されている。何もない何もないと「ダーリンダンス」の歌詞にもある様に、まさしく無がここにあるのかもしれない。 マイナンバーカードを申請しに役場へ出向いた。待ち時間が想定されたため伊藤計劃「虐殺器官」を片手に私は役場の扉をくぐった。微かな冷気が陽に照らされた私の 肌を掠める。

管理社会の是非

監視社会と倒置して論じられる事も多い、管理社会は、警察や軍隊等の直接的な監視により国家の危機を未然に防ぐために私的な生活を営む自由をある程度享受できない代わりに テロや国家的な犯罪に怯える不自由さを取り除くという、自由と自由のトレードオフとしての監視社会と異なり、部屋に閉じ込められた子供はその身長からドアノブの存在を認識できない そんな状態で、内面的に管理する社会は管理社会と言われている。

消費社会

記号を食べて生きる私たち、旅行を想像して欲しい、電車に乗り、景勝地と呼ばれる各都道府県の名所を練り歩きグルメに浸る。それをSNSに写真付きでアップロードする。 旅の目的は、各地の風土や文化に触れて自己を相対化する為にある。それは言い過ぎか。今では旅の目的は主体である旅行者がその場で、その風土のグルメを堪能したという 記号を得るために我々は駆り出されていないだろうか。ここへ行ったぞ。と写真に自分の顔と名所が映った写真を友達に差し出す。自己の顔はその地に自分が居たという証明 のためであるように思われる。そのように考えるのは邪推だろうか。確かに旅の思い出に浸って過去を懐かしむノスタルジアと共にカタルシスを得るのは悪くない事だと私自身 思う。しかし、その旅が自分を旅行者のアイデンティティを確立するための表現手段になっているのは少しばかり悲しいと感じるエゴであります。因みに昨日、能登半島に行きました。 能登半島が位置する七尾市のもう一つの観光地、和倉温泉にて、日中行った自転車旅の汗を流すのは格別であった。

wakura