習慣的にブログを付けようか8/20

前回の投稿からおよそ十日ばかりが過ぎようとしている。お盆休みで親戚まわりを行っていた訳だが、時間の流れの早さを痛感するばかりである。 我々が休日の午後9時半に感じる何も出来なかったという徒労感の実情は、怠惰な自分であったとしても休日という時間が私を変えてくれるという 過信と勝手に裏切られた自分に対する憤りや呆れの表れであると私は考えている。何もしていないとはいえ絶望的な起床も、換言すれば睡眠時間の 確保であり、昼に起きてもなんやかんやで二食は胃袋に収めている。列記とした生命維持活動を全うしている訳だ。その日暮らしと言われようと君 は両親から与った生命を全うしている。そんな風に褒められたい、肯定されたいという人間が多いが故に、「今日も生きててえらい」という言葉は 心の隙間を埋めてくれる天使の囁きへと変わる。肯定って大事ですよね。わたくしは常々それを感じております。結局は自分自身の行動や意思決定 の根底にある価値観を承認されたように感じるからなのでしょう。これは、自分が推す作品を、他人に紹介したときに面白かったよと熱く語ってく れると嬉しい事とも似ている。結局は、自分自身の審美眼への裏付けが欲しい。だからこそ、それを他人に勧めるのだと思うし、面白いと言われれ ば何故だが自分自身が肯定されている様な気持ちになる。話が如何せんぶっ飛んでしまった。私の話は暫し、魔球と呼ばれる。しらんけど

『だれのための仕事』を読んでいる。そこで思った事を下記に記す。書き記す

冒頭の一節で刺される

「じぶんの人生がはたして生きるかいのあるものなのかどうか・いいかえると、じぶんの人生は生きるに値するだけの意味をもっているのかどうか。 そういう問いをじぶんにたいして立てざるをえないというのは、さびしいことである。せつないことである」(9pより引用) 序文でこの言葉に触れた時、私の目蓋には、塩辛い何かがあふれ出ていたと思う。その後の事は覚えていない。というのは冗談で、冗談では無いよ。 こんな的確にアークスターを刺す名手がいたとは。 私の胸に風穴を開けたアーチャーはその後も、私を蹴る。「じぶんで意味を与えないことには意味が見いだせないというのは、ひとつに、じぶんの 存在が他人にとってじゅうぶんに意味のあるものになっていないということを意味する。」理性の主であるわたくしで無ければ業腹ものですわよ。 ぷんすか。きっと目を背けていた事実であるからこそ、その言葉を投げかけられた時に痛いと防衛本能でアドレナリンを滾らせてしまうのでしょう。 寧ろ、このような生体反応を引き起こさせる出来事は軽視すべきでないのでしょう。

冒頭の一節で読む決意

冒頭の一節で見事に刺された訳だが、著者が序文の序文でこの一節を持ってくるということは、この自分自身で生きる意味を見出せない人間は数多という 事の裏返しである。また、そのような病理を抱える人間に対して何かヒントを与える書籍であることを序文は示唆する。

50ページぐらい読んでみて

この著書では、現代人の時間に対する意識が労働や余暇に対する見方をある程度規定していると一貫して述べられていると私は読解したつもりである。 社会システムに貨幣が導入される事で、時間を費やす労働の対価は、何にでも換えることが可能な貨幣となる。余剰は可能性へと変わり、貯蓄や貯金 が未来志向を形成する。未来志向が形成されたが故に貯蓄や貯金が流行したのか。鶏のが先か、卵が先かはよくわからないが。

大学受験と大学生活を労働と老後にたとえる

面白い考えが提示されていた。子供の仕事は遊ぶことである。しかし、最近では小学生、強いては幼稚園児でさえも受験を経験する。多分今にはじまったこと では無いと思うが。受験と言えばやはり大学受験である。所によると年間で3000時間ぐらい受験勉強に費やすとか、これは労働時間の比にならないらしい。 大学受験という仕事を終えて、得た大学生活への切符は我々で言う老後で、就職という死までの余生であるという。これを牽強付会のこじつけと一蹴すること が出来るでしょうかね。