読書について 8/22

ショーペンハウエルではないですが、現状の自身の読書スタイルを見返すべく本ブログを執筆する。私は執筆しながら考えるというスタイルを取っているため文章に纏まりは無い。

一般的に読書の目的としては客観的な知識体系の構築と純粋に自己の悦楽を得るためなどが挙がる。自分は基本的に両者を目的としているつもりなのだが、果たして自分は前者の目的を最大限 達成できているか疑問である。今回は読書の目的の第一義としての客観的な知識体系の構築に論点を絞ることとする。読書と一口に言っても小説・新書・学術書・三文小説など様々で、読まれる 目的も千差万別である。正直、あんまりそれらの区別を設けず無差別に自己の興味の赴くがままに乱読している傾向にあるのが私の現状である。読書する本を選定する区別は設ける必要は無いと 現状考えているが、選んだ本の分類に応じて読み方や心構えを返ることで読書から得られる価値を最大化したい欲求はある。時間は有限であるし、得られる知識量が増えれば、後の読書から得ら れる知識量も比例して増えるという相互作用を期待したい。特に、新書や学術書などの知識や思想をベースに構成された書籍に対する姿勢は若干ではあるが確立されている感覚はあるのだが、 事、小説や文庫本に関しては特段、構えることもなく脱力して対峙している。小説に対して正しい向き合い方が有るとは思えないのだが、何だか刹那的な読みというか、ひとりよがりな読みをしていて 自分の知識や考えに刺激パルスを送信できていない様な気がする。恐らく、小説に対しては何か、自分の人生や生きることへのヒントや方針を指し示して欲しいという。舵取り役を担って欲しいという 期待が有るように感じる。ここまで自分を客観的に分析している自分が少し怖いのですが、何となく自分の直感としてそのような感覚がある。伊達に約20年近く自分をやっていたわけではない。 この前まで少年だった人間がいつの間にか、20という数字を目の前に差し出されて、それが自分の年齢であると気付くことができるだろうか。僕には出来ませんね。少し話が逸れてしまったが、 恐らく自分は小説に何か人生の突破口というか活路を見出す役をになってほしいのだろうということが分かった。

小説の読み方を考える

小説・ないしは最近やっているノベルゲーとの付き合い方を少し考えたい。自分は小説の文学的意義は、手法の提示にあると考える。全ての小説が社会の問題に対して目ざとい社会派であるとは 思わないが、一般に名作と呼ばれる作品は、規模の大小は違えど、普遍的な社会の問題・人間に関する命題へのアプローチや現状の社会問題などへアプローチしているものと考える。作品が持つ 問題意識はそれぞれであり、時代が変われば論じられる問題も同様に変容していく。対して、その問題提示の方法や問題に対する解決策の提示方法は時代に関わらず流用可能というか、使いまわしが 可能であると考える。何なら、一般的に名作と呼ばれるものはこの論じ方の優劣で価値づけられると自分は考えている。しかし、今現状、わたくしはその作品が出版された当時の社会構造や当時 問題であったとされる事への理解が乏しい、それが故に、なぜその作品は存在しうるのか理解できていない節があるため社会構造や歴史、国際情勢のうつろい等時事的な知識や視点を確立する必要が 有ると問題意識を持っている所存である。

何が問題であるか少々分かった

社会への理解が乏しく、過去の作品が持つ問題意識がそもそも理解できないため、小説のレゾンデートルであるところの手法の提示方法を汲み取る段階へ達していない。 ★社会へのモデル構築へ邁進しろ。

これで、いいのか?バカボン 主張の一貫性が如何せん無い。教育教育教育