テリー・イーグル—トン著『文学とは何か』メモ 8/27
38p
「文学」とは、著述が人間にどのような働きかけをするかという問題(喜ばせる、悲しませる、感動させるなど)ではあるけれども、同時に、人間が著述をどう扱うかの問題でもあるのかもしれないということだ。
40p
となると文学とは「非実用的」な言説といってよいかもしれない。
文学とは一般的なじしょうについて語るものとみなすべきだ。
自己言及的>言語とは、言語そのものについて語る言語ということである。*self-refarencial
41p
言説を「非実用的に」扱うことが、「文学」によって意味されるものの一部だとしよう。しかしこの種の「定義」を認めてしまうと困ったことに、文学とは「客観的なかたちで」定義できないという帰結に到達してしまう。これは文学の定義を、書かれていることの性質とは無関係に、各人各様の読み方にもとづいて決めることになってしまうからだ。
ー
ギボン『ローマ帝国衰亡史』
42p
私たちは、文学について考えるときに、文学にはなんらかなの内的性質もしくはそのような特質の集合が厳然と存在し、それらは『ベーオウルフ』(八世紀頃の古英語で書かれた叙事詩)からヴァージニア・ウルフへと至る文学の長い営みのなかに連蜜と受け継がれているなどと考えるのではなく、むしろ文学とは、人間と著述との、一連の関わり方だというように考えたほうがよいことになる。
ー
『ベーオウルフ』
「ヴァージニア・ウルフ」
43p
ジョン・M・エリスが論じたように、「文学」という用語は「雑草weed」という言葉と同じような働きをする。「雑草」とは、あるきまった種類の植物の名称ではなく、庭師がなんらかの理由で庭に生えてほしくない種類の植物全体を指す語である。「文学」という名称は、なんらかの理由で非常に高く評価される種類の著述全体を指すものだから、「雑草」の場合と事情は逆かもしれない。
ー
ジョン・M・エリス
「文学」も「雑草」も、存在論的用語ではなく機能論的用語である点で同じなのだ。
ー
存在論と機能論の違い
43~44p
こうした用語が教えてくれるのは、固定された事物の様態ではなく、私たちがおこなうことについてである。それらが教えてくれるのは、社会的コンテクストにおけるテクストあるいはアザミがはたす役割であり、テクストやアザミが周辺の環境とどう関係し、また、どう異なるのか、テクストやアザミのふるまい方、それらに課せられる目的、それらを中心に組織される人間の実践といったようなことなのだ。
44p
小説を娯楽として読むことは、道路標識を情報として読むこととは明らかに異なるが、では、精神を豊かにするために生物学の教科書を読むことは、どうなのか。
45~46p
文学は「名文」である必要はなく、ただ良いとすでに判定済みの種類に属してさえいればいいわけだ。
ー
アーネスト・ダウソン 詩人