走ってきた全力 それは少年 8/30
実家周辺の田んぼ路は私の青春であり、郷愁を纏った土地なのである。少年時代には、友達と一緒に勝手に田んぼに入って、おじさんに怒られて必死に逃げ回ったりもした。今の子供は、どのような少年時代を過ごしているのだろうか。子供の遊んでいる様子を想像するおじさんになっているような気がしてなんだかフレッシュさを絞り切られたレモンのようだ。時間というスクイーザーが私の酸いも甘いも全部絞り切ったという訳か。悲しみひとしお頬に涙が流れる。過去へのノスタルジアは後悔なのだろうか、自分に問うてみる。確かに、あの頃は時間など忘れて今という感覚さえない、夢中という言葉がまさしくそれという時だった。永遠に続くような感触。夏休み、寝ぼけ眼でラジオ体操へスタンプカードを首に下げた少年は、近所の集会場である神社へ赴く。草木の露が、早朝の涼しさが半ズボン越しに伝わってくる。神社の境内の広くなった部分で、同級生や下級生がちらほら、見知った顔に、よっすと挨拶を交わす。流れるノイズが入り混じったラジオの音声が、ラジオ体操の音声にモードチェンジする。動かす体に熱が帯びてくる。少しづく眠気も覚めていよいよ最後の深呼吸を終え、皆は一斉にスタンプラリーのおじさんの元へ駆け、そそくさと走っていく皆、灯籠の近くで友達が集まっている。今日はうちで遊ぼうぜと約束を交わし、自分は走って家へ帰る。リビングで用意されていたご飯をかきこむと、すぐに行ってきますと母の返事も待たずに走っていく。何時に集合などと言わずに、相手のおうちの都合など考えずに家へ押しかけていくのが子供なんだと思う。ゲームに、缶蹴り、田んぼの用水路で泳ぐ魚を網で捕まえたりもしたっけ。遠き日の想いでは確かに私のものだ。忘れもしない夏の日の思い出はこの胸の中にある。忘れてはいけいないと、そういうように、今私が走っているこの畦道は私に過去の匂いを思い出させるのだ。私は現在齢19歳であるが、まだ当事者でいられるだろうか。もう私は傍観者という立場を背負わざるをえない人間なのだろうか。