俗信について 9/4

大晦日に、高い丘のような場所から蓑をさかさまに着て、自分の集落や家を見ると来年の吉凶が見えるという俗信があったそうです。これは冬の季語で岡見という行為として現代に伝わっている。実際に新潟県のとある郡では、岡見が行われていたようで、来年火事になるような家には微かな明かりが見えたり、来年の死者が判ったりという話もあるようです。年の瀬という時間の境界で人々は来年を迎える意識を形成していったのか。



股覗きという行為を一カ月に一度ぐらいやると思うが、あの行為は昔の人には他界を覗くための行為であり、深淵を覗く行為でもあったようだ。なんだか人間、様々なことに意味を込めて物語性を演出しようとしている気がする。



成仏できない魂が火になって飛ぶで有名のケチビはタクシーのように簡単に呼ぶことが出来たようです。その方法としては、靴の裏に唾をつけて、ケチビcome onとコールすればすぐに来る。『土佐風俗と伝説』を参考。



棟上げと三隣亡



三隣亡とは「近隣三軒が亡ぶほどの災いがある日のこと。」(LOHAS studio)、江戸時代の本に「三輪宝 」と記されて、「屋立てよし」「蔵立てよし」と注記されていたらしく、現在とは正反対の吉日だったが、暦の編集を行っていたものが「よ」を「あ」と誤記した結果、今現在では悪い意味で伝わっている説があるそう。 柱や梁などの建物の基本構造が完成した際に、棟木をあげる際に行われる棟上げと呼ばれる儀式を三隣亡の日に行うことは禁忌とされる地域もあるよう。



知らない知識が豊富で、未知の世界は豊かであることを感じる。ロラン・バルトも無知とは知識の欠如にあるのではなく、知識の飽和により新しい知識を受け入れられない状態であると言っていた。未だ知らない世界に思いを馳せる自分であり続けるよう心掛ける。