プラスティックメモリーズを見る
ノベルゲーはたまにやるけど、アニメ観ることが減ってきた
作品に触れる機会が減ってきた。というより、作品の形態がアニメーションからビジュアルノベル・小説へ移行してきた 感じがする。ノベルゲームの場合は長いもので50時間近いものもあるのだが、アニメの場合は1クールで4時間程で、ノベルゲー 一作やる時間でアニメを12クール分視聴可能。こう考えると何だか最近の大衆消費社会の時代に長編ノベルゲームが流行らないのも 少し頷ける気がする。作品に触れた数を記号として捉えるとアニメーションはノベルゲームに比べて効率がいい。時間対効果を考えると 少し悲しい気持ちになります
第4話:うまく笑えなくて
今回の主題はアンドロイドが普及した世界における家族間の変容といったかんじだろうか。4話では両親を幼いころに亡くし 、ギフティアというアンドロイドに育てられた少年に主眼が置かれていた。作中では少年の様に、アンドロイドに育てられた 子供をアンドロイドチルドレンと呼ばれている。少年は幼い頃、両親を亡くした経験からアンドロイドとして寿命で自分のもと から消えるギフティアに両親の姿を重ね、自分を1人置いていくかもしれないという恐れから防衛機制を働かせ、強く当たる。 「ギフティアは嘘ばかりだ」と少年はそしり、誕生日を前にして心を閉ざす。そこで、ギフティア回収業を生業とする、アイラ 一行はギフティアとのコミュニケーションの末、彼の誕生日にサプライズを決行する。少年の育ての親であるギフティアは両親が 生前、少年の誕生日に振る舞った思い出のタルトを作り、それを口にした彼の心は開かれる。
別れ
天寿を迎えるギフティアとの別れを前に、彼女は少年に言う。「わたしは、いなくなっちゃうけど、これからもずっとずっといっしょだからね」と アンドロイドも人間も記憶という点で見れば人間からは同等に扱われるという点を示しているのではないだろうかと思った。「ブレードランナー」 を観た時も、こんな感じのことを考えたような
朝焼けのスターマイン
実を言うと、この作品に触れる前からこの楽曲の存在は知っていた。以前から私の心に残っていた楽曲だけあって、EDのアイラのかわいい 映像と一緒に聞くと結構印象が変わるもんだと思った。
5話:守りたかった約束
アンドロイドと法がテーマだった。ギフティアは寿命を超える稼働と制御できなくなり人間に危害を与える可能性がるということで「ワンダラー」に ならない前段階でアンドロイド回収業が共に過ごす人間との別れに仲介する。作中では暴徒化したギフティアは民間企業の警備会社が武力を行使して 制止する。劇中では暴徒化したギフティアは人間を超越する様な身体能力で他者に危害を加えるが、実際制御下から外れて正常な行動パターンから外れる ということは有りうる話なのだろう。そういった状況下で、人間はどのようにアンドロイドをどう扱うかが今回の論点なのだろう。アンドロイド自体に 対する考えよりも、アンドロイドに対して感情や倫理観を抱く人間がそれをどう考えるかという点が大きく規制や法律に影響することが考えられる。
映像作品から主題性を汲み取るのにがて
映像作品は情報量が多く、頭がオーバーフローしがちである。特に長編映画を視聴していると顕著である。そのため、最近では小説やテキストベースの作品ばかり に触れている気がする。以前までは一日で1クール視聴することもざらにあったが、最近では3話ぐらい観たら疲れてしまう。一重に情報量が多いと解釈することは出来ない。 これまでに触れていたような作品は、どちらかというと頭を空っぽにして楽しめる作品が中心だったが、最近は、無意味に何かを考える癖がついてしまって、 一作品ごとに考えを巡らせてしまう。寧ろ、観た時の情報量が増えたというよりも、頭で処理する情報量が増えたと考えるのが妥当かと。映像作品は小説や漫画とは 異なり、視聴者の意思に関わらず展開していくものであり、受動的になりやすい。対して、小説や漫画は、読もうという意思が無ければページは勝手に進んではくれない。 勿論、アニメーション作品であれ、テレビの前に座して待つなり、再生ボタンをクリックするなりしないと作品に触れることができない事実は確かだが、媒体として質感が 異なる。メディアのタイプによって描ける印象や受け取り方も変わってくるため、出来るだけ満遍なく色んな作品に触れたいとは考えている。自分の好きな作品にだけ触れるのも1つの愉しみ方だろう。