大学が始まった

あの頃は良かったと郷愁の念を募らせる年上の人の気持ちが少し理解できる。やっぱり夏休みは縛られるものもない自由の身だったのだと痛感します。失ったものを嘆くよりも来る未来を見据えて一歩踏み出せる人間でありたいですね。終わったと言っても人生はまだ続くようなので少しづつ大学生活に体を馴らしながら色々自分のペースで頑張っていこうと思います。前学期は勢い余って30単位分授業を取ってしまって少しだけ学期末につらい思いをしたので、今学期は少しセーブ気味で行きたいと思っております。長かったようで短い、そんな人生みたいな夏休みでした。人生を経験しつくしたことは無いのですが前世の記憶がそう言っているような気がする。大学が始まって色々、諸業務を行っていると自分は結構社会に適合できないタイプの人間なのではないかと感じます。消極的芸術家タイプであるとは前々から思っていたのですが、こうもまざまざと痛感させられると少しばかり無い尊厳が損なわれたような気がします。

最近は、何かを継続することがやっぱり後々に実を結ぶなと、長いスパンで人生を考えるようになっている。刹那的な生き方も悪くないが、大きく花咲く生き方も悪くないと考えるお年頃です。ただ、一年間続けていたことを急にスパッとやめてしまうこともあったりするので、それは一つ経験として次に活かさないとあの一年間で費やされた時間が死ぬに死にきれないと悲痛な叫びを上げかねない。自分は何かを継続することに対してそこまで苦痛というか抵抗を覚えないタイプなのかもしれないと感じています。しかし、一年ぐらい続けていて、なんでこれをやっているのか分からないという。大学受験で、第一志望校を決定して一年間勉強してきたけど、いざ出願の時期になるとなんで自分はこの大学志望してたんだっけ現象が起こるので、日々、日課にしていることに対してフィードバックを与えるように心がけている。これだけ聞いているとなんだか意識が高い系統の人種の様に見えるが、事務処理もコミュニケーションもろくさっぽ出来ない人間であることは変わりがないと思うと少し悲しかったりする。何であれ続ければ大きな力になるのだと一年続けて感じました。続ける為には強い意思が必要だが辞めるのは一瞬。タバコとかお酒と一緒ですね。やめようと思えば一瞬で辞めれる。やはり、何故それを自分がやっているのか、行動理念を明確にするとか、存在意義を与えるとか大それた話じゃないけれど自分が好きだと思ったこと、やろうと思えたことに対して一途でいられることを私は嬉しいことなのです。美味しいは嬉しい。楽しいは幸せ。余談なのですが、俵万智のサラダ記念日は実際は唐揚げ記念日だったとかいう話を聞いて卒倒しました。

日常会話が下手。日常という名の戦場を生きてきた人間なので、きらら系の様な穏やかさに慣れていませんので、人と話していても話が続きません。何時も話していても沈黙が場を支配するのですが、あんまり悪い心地はしないんでよね。毎度、空虚さで間を埋めるぐらいなら沈黙という空気感を漂わせるほうが未だ幾分か心地いいように感じます。今回の文章がですます調になっているのは人と話す際に多くの場合ですます調になってしまうが故の弊害であります。適切な距離感を保たずに人とコミュニケーションを取ることが出来ない。

人と話すと言ってもそこまで多くの人と話した訳では無いが一様に話題が振られる。あれは何か事前に会話資源を補給してから会話の輪の中に入っているのだろうか。もしかするとこれを話そうと敢えて会話の種を持っておけば意外と自分のペースで話をすることが出来るため自分の好きな内容や話しやすい内容でコミュニケーションが可能になっているのか。まるでチェスだな。昨今、世間を賑わせているノーベル賞受賞のニュースや大学生御用達のSNSである未知数のXやインスタントテレグラムなどから情報を整理して、事前に台本を用意するぐらい頑張って臨めば何とかなりそうな気もしている。何だか、好きな女の子とのデートを前にして、意味もなく部屋を掃除したり、乱れてもいない髪を何度もチェックする男子のようで自分が少し哀れである。そもそも会話って何だ。