自分という存在に責任を負うこと 10/15
刹那的な生き方をしていると感じる事が多々ある。やりたいことに飛びつくことは悪いことではないのだろう。新しきを追い求めることは知的好奇心の表れであり、自分の知らない世界を知り自分の世界像を広げることは人生の豊かさを生み出すことに繋がる。自分は一つの物事に触れた際に得られる考えや知識が多ければ多い程によく、人生の豊かさにおける一種の指標であると考えている。今を生きろ、未来過去は自分の管理下にあらず、故に現在のみが自分自身が生きる事の出来る世界なのだというかもしれないが、少々懐疑的である。今を生きれるかは、過去の自分に依るし、出来る限り今その時を十分に謳歌するためには未来を見据える必要があるのではないだろうか。最近の自分は、考えることを放棄するために手段として今を生きているような感覚がある。自分は小説やノベルゲーを制作しているがどれも名義が異なる。これは、自分自身の一貫性を放棄する行為ではないかと客観的に自分を分析するとこのような結論に至る。連続した存在としての自己に対して責任を負うことを放棄すると自分がひどく浮遊した感覚を得る。今は今だけを考えていられる環境にいるが、この安住の地から追放されるか恐怖している自分がいる。この記事を書き始めた理由は言い知れぬ恐怖感に駆られたからである。将来とか自分自身の未来なんてものは考えたくないが、この社会に生きる以上いつかは考えなければいけない壁なのかもしれない。
人と関わること
人と関わることは自分という存在が否応なく存立され続ける。自分は継続的なコミュニケーションに対して苦手意識を持っている。その理由は定かではないが、自分自身を一つの存在に閉じ込めることへの嫌悪感が苦手意識として表れているのではないかと考えている。自分は、場当たり的なインスタントなコミュニケーションに対しては苦手意識や避けたいという感情を抱かない。何故なら、失敗や自分の醜態を晒してもそこで今日の自分は途切れ、また新たな自分自身へ変身することが可能だからである。代替可能な自己を記憶の不連続さが演出し、常に純潔な自己で居られるから。多分、プライドが高い人間なのだと思う。中身の伴わない外面だけの矜持などただの伽藍洞であり空虚なり。恐らくだが自分の様な悩みを抱えている人間は少なからずいるだろうと社会に出て人とろくに関わったことがない人間であるが確信めいたものがある。まあ、自分自身の中の胸の澱に気づけたならばそれを除去することは出来ないにしても向き合うことは出来るだろう。
考える事をやめない方がいいね。
不幸にも幸いにも理性を持ってこの生を受けた以上、悩まずに生きていくことは難しい。悩まずに生きてこられた人生ならばまず、このようなブログを作ろうという発想に至らないだろうし、哲学書を読んで様々な思想に触れようなどと意思決定することもなかったはずだと思う。私は、能天気な人間を見るたびに毎度、深いことを考えずに生きていられるのはある種の才能で有ると、皮肉などなしに思う。考えないことはこの世界では一種の生存戦略として機能しているのではないだろうか、これは穿ち過ぎか。