ですます調から始まる話

ですます調で文章を書くと遜りの精神が芽生えるように感じます。わたくしは特に文語的な表現を日常で使用するため周辺の人間からは変な奴と思われているかもしれません。大学でのレポートではだである調で文章を書くためどうしても上手に出て、少しばかり調子に乗っている感じがするのです。語調一つで自己の精神が変容する様子は、言語により思考が規定されるサピアウォーフ仮説を感じさせる。そういえば虐殺器官でもサピアウォーフ仮説は登場しましたね。伊藤計劃氏はSF界隈では夭折した天才として多くの作品に影響を与えているように思いますね。最近、早川書房より出版されているアンソロジーを読んだのですが、氏の作品に登場するミァハに追悼の意を込めた作品が掲載されており愛された作家であったのだと痛感しました。ProjectItoの名でノイタミナ枠で映像化されたり、周りのSF好きがファンであることを公言していたりと、彼の存在感は死を以てしても、否、死によってむしろその存在の大きさが衆目に晒されることとなったように感じる。可能性を残して消えた若き天才と呼ばれる作家は今は何をしているだろうか。作者の死により残された可能性がその存在を肥大化させる例は多くある。例えば、Qというボーカロイド楽曲を世に送り出した。wowaka氏も若くしてその命を絶った1人の人間である。彼は若さに大きな価値を見出し、自分が年老いる事を鮮度の落ちた生物の様に呟く姿も散見された。音楽という感覚的な側面が大きな割合を占める壇上で自分が見出したアイデンティティが消え入る姿を見る未来の自己を消し去ることを決心した。彼はもうこの世にはいない。有終の美を飾りたい人間は多くいる。批判を受けて強くなるそのような過程を経ずに、ただ自分が切り開いた独自の世界に浸り溺れゆくでありたい。その自己を額縁に飾りそのまま誰からも愛され続ける可能性で満たされた世界を切望する心理は何処にあるのか。恐らく批判が可視化されやすい昨今の趨勢にあるのではないかと思います。名作を生み続け自分に汚点が存在しない人間は珍しい。完璧に見える人間は存在しうるが、完璧な人間など存在しない。誰からも同じ心象を抱かれる人間は寧ろ恐怖に値する。そこには他者を分析してそこに迎合する目が見えてしまうからだ。欠点なき人間は奇妙さを纏う。逆説的にネガティブイメージを抱かれない人間はいない。SNSではそのネガティブイメージが反響して耳に届くことが暫しある。それが故に、一つの成功という圧倒的大多数からのポジティブさで埋め尽くされたその一時点を切り取り、額縁に収めて動かない死体と変わりたいと切望する。批判を受ける事から逃げる必要は無い。失敗を許容できない人間で埋め尽くされた世の中ではない。圧倒的小数の声が異常に大きく聞こえる世の中になってしまったことを頭に入れておけばいい。どうしても耳鳴りがして止まないならば一度休んでみればいい。

やはり読書は面白い

やはり俺の青春ラブコメは間違っているも観返しました。書籍には様々な魅力があると常々思う。自発的に書籍に手を伸ばさないと本の中に隠された物語は動き出さない。それが少し勿体ないようにも感じるほどに私は読書に魅了されているのだろう。私は人間関係を上手く構築して、コミュニケーションの面白さを享受できる程に器用な人間では無いので、内的な世界で架空の世界をはしごするぐらいの方が楽しい。最近は自分の処理能力の乏しさを痛感する機会が多い。事務処理や提出書類を作成する等、様々な箇所に注意を及ばせることがどうも苦手らしい。何とか言語化能力が処理速度をカバーしてくれているお陰でこの乱世を生き延びられている気がする。言葉には感謝している。ありがとう。 こんな感じで恩義を感じる程の言葉というもので書かれた書籍は、恩師の大行列ということで参拝しないのは無礼ということだろう。なんて適当なことを言っているうちに、既に来年が隙間から顔を出している。今年は私にとってどのような一年だっただろうか。実はこのブログを始めたのは春のことであったため、ブログ上では実はまだ一年が過ぎていない。振り返ると他のブログで書いた記事の数もあわせると恐らく50近い。これは結構驚くべきことなようにも思う。1つ当たりの記事には大体1000から2000文字ぐらいの内容が含まれている訳であるから。10万文字ぐらいの文章をいつの間にか出力していたことになる。これは一冊の書籍になるぐらいの文良では無いだろうか。別に分量に特段、意味を見出す質の人間では無いが何となく歩んできた轍の長さのようで感慨深いだけである。 ブログを開設した目的は手に入れた知識をアウトプットしたり、自分の考えをまとめるといった感じだったと記憶している。思索的な記事は多く書いたように思うが、知識を吐き出す場としてはあんまり機能していないようにも思う。時折、書籍を読む際に覚えていればここに書き込む程度だった。このブログ内で記述した知識はエピソードを伴って頭の中で整理されている為、他の知識よりも関連するノードの個数で優位であり、結構役立っている感じもする。もう少しうまくブログを使えると良いように思おう。来年の目標を挙げるならばブログをアウトプットの場として更に使いやすいものとすることだろう。この試みは実は一度行われているのだが、更新が面倒くさすぎてやめてしまった。 毎度、副題の意味をなさない文章を書いては自分を困らせた。これは自分自身に済まないといいよを与えたい。

シナリオ全然かけてない

相対的にインプット過多である。自分のポリシーとして物語の根幹に関連しない知識を振りかざす衒学的な態度を取らずに有機的に纏まりを帯びた作品を作りたいという思いがある。アウトプットを出来ていないと言ったが、実は世界観設定やプロットを考えている作品があるのだが、知識が不足の感を拭えずに勉強を開始したものの、別にシナリオに関係しない知識も身に着けたい欲が芽生えだして脱線に脱線を重ねて今自分は何をしようとしていたのか不明になってしまっている節はある。多分、知識不足や世界観設定に不備があることは了解の上で作品を創ることはストップしない方がいい様な気がした。特に今は時間が多分にあるため、知識を身に付けながら色んな経験を積むみたいなインプットとアウトプットの両軸を回しながら事を進めることはそこまで難しくないのだろう。ならやればいいのではないかという話であるが。 寧ろ作品の根底に関係しない部分で知識を発露させることで、その知識や考えを定着させるという風に舵を切っても悪くないかもしれない。