雑記ばらん 3/3 part2
Blogを更新する機会が減っている事について考えてみた。記事として自分の考えや得た知識を文章としてネットの海に放流する行為は自分に何をもたらすだろうか。ブログ開設の動機は人に自分の意見や得た知識を話す機会が減っている事を危惧しての事だった。今現在を省みると、結構な頻度で人と話す機会を得ていると思う。それは偶然ではなく意識的に他人との関わり合いを持とうと努力しているからである。というよりも様々な人とコミュニケーションを取る事で得られるものを知り始めたという方が正しいかもしれない。自分は大学入学当初、高校時代の内向的な性格と向き合うべく、現在所属しているサークルに入会した。1年目は特に、口を開いて誰かと積極的に会話するという事は無かったが、今現在では持ち合わせの知識で何とか会話が出来るようになっている。自分自身会話が苦手であるという自覚は無いのだが、やはりコミュニケーションに長いブランクがあるため更生する必要はあると思った。今を振り返ると、入学して色んなサークルに入ってみてよかったと思う。今は幽霊になって殆ど顔を出していないようなサークルもあるが、自分自身の居場所やコミュニケーションが出来る場所を確保できたことは大きな成果である。入学後誰とも関りを持たずに、家で読書やゲームに明け暮れる日々もきっと得るものがあるし、そこで違った物語が生まれている可能性はある。結局の所、自分は自分であり他では無いので、遅かれ早かれ人と関わりを持って過ごしていくという結末はあったのかなと思ったりもする。
創作の上でやはり人とのコミュニケーションは大切なのか...という問題。様々な作品を読んでいると、物語における現実のディティールが異なる事に気づき始める。特に最近では、小説を読む際に、純粋な作品に対峙する自己と創作者としての目線を持つ自己がいる事に気づく。勿論、自然に分裂した自我ではなく、意識的にモノの視方を複数持っているという方が正しい。作品をメタ的な視点から眺める事で自分の作品に活かそうとする試みを行うと、今まで純粋に作品を楽しむ心を持った自分では気が付かなかった事が目につき始める。この作品は、場所とイベントを一対一で結び付けて展開しているぞだとか、人間に関連するイベントを列挙して、そこから生まれる物語を考えてみると実は色んな事が見えてくるぞだとか。この作家は、登場人物が立ち替わりで登場するが、この作品は、二人の主要キャラクターが軸に物語を展開して、他のキャラクターは、一つの話ごとに登場するだけで後の物語には登場しないなとか。結局、こうやって分析して何かいいことがあるのだろうかとか様々なである。このようなメタ視点での作品の鑑賞方法を身に着けてからは、発見が多く作品鑑賞する事がより一層楽しくなったように思う。これは自分の描く豊かさと符合している。
観たい作品群と学習したい分野が膨れ上がっている現状を打開するのは、時間をかける事だと思いたい。有限なる時間を選択で切り捨てる楽しい可能性などと思いたくない。悲しさを相克するためには今勉強したいと思える事を見つめ時間を費やすことを惜しまない事だろう。特に最近は、映画も観始めてしまったため時間は溶けるが、そこから得られるものをより多くして色々な事を一つから得られるようにメタ的な視点を欠かさないようにと考えている。純粋な作品鑑賞の体験は損なわれるという危惧もあるが、そこはご愛敬。
c++を書いているが学習する必要性があるのか無いのか分からない。アドレスやポインタの概念を知り、ハードに近い言語に触れる経験は今後のプログラミングライフに利益をもたらしてくれるとは思うが、もっとJavaScriptとかTypeScript、React,Nextとかやる事はありそうな気がしてならなかったりする。コードは書いていて楽しいが、設計はほぼやったことが無いので、そこら辺も色々経験しておくと将来、自前で作りたいアプリケーションがある際に役立つかもしれない。最近では、GitHub CopilotによりAIがコーディングをアシストするという自己成長型のAIが可能であるかのような状況が到来している。この趨勢の中で、我々はSEが生み出す設計図に従ってアプリケーションを作り出すプログラマーをAIに代替させる事が可能になっているかもしれないと気づく。ここで重要なのは中身の部分になってくるのだろう。プログラミング言語はあくまで手段であると焼き増しされた言葉がここで耳元で囁かれる事になる。今や純粋なコーディング能力は手段に終始して特に役立たないものに変わるのかもしれない。役立つ役立たないは相対的なものだと気づかされる事例であるが、今現在の人工知能の発展の中では設計の重要性が叫ばれるようになるのだろう。作りたいものさえあればAIがそれを設計図に落とし込み自動的にコーディングする未来は、自動建築が可能になったSF的世界観を想像させる。簡単なアイデアさえもネットワークの中で眠る集合的無意識が生み出す幻想が代替する事が可能になれば、我々の人間性に対する問いがより一層強く問われる事になるだろう。生成AIブームの際に、自分よりも絵が上手いAIと思しきAIが生まれても書くことをやめない人間がいた。自分もその一人で、経験と実感として描くこと自体が自分を満たしてくれるものだったという事が挙げられる。この何か行為の結果ではなく、それ自体にポジティブイメージを見出せる人間は、豊かな人生を過ごせるのではないだろうか。結果が全ての世界で生きてしまった人間は、自分の認識を社会により強制的に改められ、それが更なる社会変革を生むという社会構造に構成された人間が浮き彫りになる世紀がもしかしたら来ているのかもしれない。計算機により人間の処理速度を凌駕した複製知能が我々の社会構造までも変革する。そんな世界でどのように我々は生きるべきだろうか。きっと無駄だと思われていたことが無駄でもいいかと開き直って見つめられる時代がくるのだろうな。無駄は無駄でも無駄じゃない。