資本主義について学習した 3/23
Twitterというメディアでlainがしゃばいオタクが身に着けるファッションに堕するようになったという指摘があった。そのツイートのコメントに全て資本主義が悪いという意見があり、資本主義って何だろうという疑問から書店へ駆けた。それが資本主義について学習した動機であり、いずれ学ぶことになる社会の仕組みに少しだけ早く触れる事となった。岩波新書の『ポスト資本主義』を読んだので、学習した内容について記述していく。正直一冊の書籍しか読んでいないため知の相対化を行う事が出来ていない節があるが、結構色んなことに気づかされたのでまとめていく。
資本主義とは、市場経済と拡大・成長という二つが組合されたものだと記述されていた。市場経済自体は、物々交換という古くからある形態も含まれ、そこから貨幣の導入を経て現在の形態へ近づいていく訳だが、従来は、家を買うために貨幣を手に入れ、それで目的となる商品を手に入れるという物・貨幣・物という風に定式化ていたものが、貨幣・物・貨幣´という風に変わっていた。それが資本主義だという。書籍では、家を例に説明がなされていて、投機のための家を買う事、すなわち、家を高値で売って元手の金額よりも多くの貨幣を手に入れる事が目的となっている状態。これが資本主義の本質を上手く表しているという。
資本主義の貨幣をバクバク太らせる事でシステムを成り立たせるという視点を手に入れると、様々な世界の現象に説明がつく点が興味深いと思った最大の理由である。世界史で論じられる帝国主義も資本主義という視点から考えると、ヨーロッパ諸国が植民地を拡大させるために奔走した理由が見えてくる。貨幣を太らせて資本主義という機構を成立させるために突き動かされたことが最たる要因だろう。自国での需要が満たされ、貨幣を太らせる仕組みが機能し無くなれば、新たな貨幣を太らせるためのシステムをある種、自発的に作り上げて飲み込んでいく。その結果、戦争という手段を用いて需要を空間的な広がりを以てして拡大していく。自国から他国へ、そして地理的な領域拡大が限界を迎えた時に、次は電脳空間と言う仮想的な幾らでも拡大しうる可能性を備えた格好の的を見つけた資本主義は、擦り切れるまで呑み込んでいく。著書では、資本主義の成長期と停滞期を交互に繰り返す様についても論じられていた。
今回読んだ『ポスト資本主義』では、学問の隆盛と社会の流れが関連付けて論じられてた点が非常に興味深かった。昨今、学術界隈では、文科系の学問と理科系の学問が融合した学際的な学問領域の重要性が取り沙汰されている。神経経済学などがその好例であろう。
一冊の書籍から受け取る情報量が増えてきた実感
最近、実感として一冊の書籍から考える幅が広がっているように思う。自分は、人生の豊かさの指標として、一つの事柄から得られる知識や考えがいかほどかというものを持っている。知識や考えはネットワークの様に広がりノードがリンクを結ぶことで新たなアイデアをなすという価値観を内面化しているが故の発想である。誰かが本を読んでメタ認知のレイヤーができると、将来に対しての心配が生まれ、前のほうが楽だったという感覚が生まれるが、それを抜けると見える景色があるという事を言っていて、自分も一時期、深く思索を巡らせる事が幸せに繋がるのかと疑問に思って、人生哲学など持ち合わせない楽観的な人間の方がはるかによい人生を送れるのではないかと考えていたがそうではないかもしれないなと思い始めたりしている。悩む事は大切だと思う。悩むも実は細分化されていて、外的な要因によって悩まされるケースと、積極的につらい思いをして悩むケースに二分されるのではないかと思う。後者は、心的なストレスを得るものの考えてその悩みを解消する場合が多く、辛いが悪い経験では無かったと思う事が多いように思う。
1つの記事で論理を展開出来たらそれは大したもの
いないにも関わらず取り敢えず中身も無い文章を書き散らすという事も暫しある。何も考えずに書いたと思った文章であっても実は後から観返すと、思わぬ慧眼に驚かされるケースが少なくない。特に、去年は文章を書く事自体が楽しくて、何であれ画面上に出力される文字列に恍惚とし、自分が文章を書ける事にありがたみを感じていた。そこで気づいた事として、いくら書き散らした文章であっても、ある程度以上の長さを有した文章は、自然に構造的になり、一貫した内容を持ちうるという事である。内容的に断片化した文章は、論理により接合する事が難しく、記述する私のタイピング速度は低下し、楽しい執筆がとん挫させられる。そのため、ある程度以上のスピードを有して文章を書くためには内容的に一貫したものである必要がある。だが、自分は一貫した内容を延々と紡げるほどに成熟した論を持ち合わせている訳では無いので、大抵の場合は、中身の無い空虚さが続くだけの文章であったりする。
た文章で構成されている。他の記事についても、新書を読んで内容をアウトプットするという目的で書かれているが、複数書籍を読んで、それらを綜合した上で展開されていくというケースが少ない気がする。せいぜい、過去に読んだ書籍から得た知見を一寸ばかり参照する程度で、自分の中で学問分野一つに対する世界観を形成できているという風には思えない。読書の仕方も考えないといけないなと思わされたりする。前々から思っていたが、やはり一つの学問分野を集中的に学習した方が得られる事も多いように思う。一時期、フッサールを祖とする現象学に関連する書籍を何冊か連続して読んでいたが、その時は、書籍を読む事に記憶がアップデートされ、ページをめくり新しい情報に触れるたびに、前の関連書籍との比較を通して自分の中に取り込むという姿勢が生まれていて、学習の効用の高さを実感していた。しかし、飽き性な自分としては、一つの分野に留まり続けて学習する事は結構辛い思いを強いられる事で、中々難しいのだが、先ほども論じた通り、積極的につらい思いをする事は、得られる事も多いので頑張りたいと思う所存である。内容が希薄になってきたのでそろそろここら辺で畳む事にする。
参考文献
- 広井良典 『ポスト資本主義』 岩波新書 (https://www.iwanami.co.jp/book/b226337.html)
- 千葉雅也氏の過去の投稿:(https://twitter.com/masayachiba/status/1770694512970813820)
参考文献の書き方知らない。これだからダイガクのセイセキがカンバシクないのだな