ノベルゲーっていいよね 4/2

シナリオゲーを志向すると憂き目にあう事は以前より分かっていたのではと過去の自分に問いかける。しかし、返事はない。プロットを全然練らずに時系列を移動しまくるせいで筆が一向に進まず、去年と同じような嘆きの声を上げているのだが、誰も助けてくれない。去年よりも確実に知識量もシナリオに対する慣れも増しているが、執筆しながら物語の展開を後世出来るほどのマルチスレッドな脳は持ち合わせていないので、予めプロットを用意しておいたのだが、途中で脱線に脱線を重ねた結果、当初の想定であるエンディングへのルートへどう軌道修正すればいいか悩んでいるのが現状である。一応プロット修正しようと試みている訳ですが、勿論、最初のエンディングまでのルートを想定して作っているので追加された要素に対するロバストは持ち合わせていないのは当然で、整合性を担保するために頭をフル回転させるも結局ダメじゃんこれを繰り返して、投げ捨てれたアイデアたちの身にもなったらどうですかと思ったり。何故、あの時踏みとどまらなかったのだろうか。もう引き返せないよ。結局、創作は一筋縄ではいかないという事を身に染みて分かる。以前はろくにプロットも練らずに執筆を始めた結果、短調で構造化されたパターンを有した物語なのに筆が進まないという異常事態に面して、プロットを練るという事を覚え、何とか事無きを得た訳だが、今回はどうすればいいんでしょうか。もしかして、全没にして書き直せとかいうのは止せよ。まあ、この際、それも選択肢の一つとして浮かんできてしまうというのが怖い所ではあるのだけれど。

PS.過去のブログを確認したら一応、プロットはある程度練ってあったらしい。

悩む事は悪いことではないと思うのですが、悩んでいる当人は悩まずに済むならそれでいいだろとかちょっとやさぐれた思いを吐露してしまう。生理的なつらさを経験値と捉える事も出来ない訳では無いが、こうやって何も出来ない無力感に晒されると人間はストレスで何かに血が混じったりするので、辞めて頂きたい。

過去の自分は文学的な表現を好んでいるようだが、今は文豪になりましたよ。過去の自分は、複雑なシナリオプロットというよりも文章そのものを味わう事を目的とした作品を生み出す事を志向してたように思う。最近の自分は、キャラクターが主体で、キャラ間のインタラクティブが物語を運ぶタイプのシナリオベースの作品を志向している。ノベルゲーのシナリオを想定しているので、どうしても会話が主体になり、以前のように地の文で情景を描写する必要性が損なわれている。過去の自分は、特に人と会話する事が無いので、ノベルゲーの様な会話ベースのシナリオを書くのは非常に難儀を強いられると高を括っていたのだが、普段から会話ベースの物語を書く事に慣れればそこまで難しさを感じなあった。確かに最初の方は、会話が短調で、こいつら何を言いたいんだと自分で突っ込みたくなる事もあったが、今は何とか会話と呼んで差し支えない程度の質にはなっているのではないかと。

小説とシナリオを書いている時の違いとして、小説はよりキャラクターの視線に近づく事を求められるのだが、ノベルゲーのシナリオを書いている時は、あまりキャラクターの視線に近づく必要がないというか、シーンの移り変わりが少ない(素材がない)。そのため、言葉にしづらいのだが、登場人物に没入しづらい気もする。正直どっちも書いていて楽しいが、両者ともに質は結構異なる気がする。小説の方は、より文章自体の表現に力を入れる事が出来るのでテキスト的な面白さを追求できる。対してシナリオは、会話を通しての面白さを追求できる点が異なるかなと。小説の場合は、注目出来る視点が自由であるため、ノベルゲーのシナリオでは注目しづらい細かな視点に目を移せる。多分、小説とノベルゲーで1人の少年が畦道を歩いている様子を描こうとしたら両者ともに受け手が得られる印象がだいぶ異なる気がする。やっぱ小説は表現力高いよなと思いつつ。細部へのこだわりをバッサリ切り捨てると、物語というマクロレベルで展開していく事に意識が向くので最終的な爆発力が大きくなる。これがノベルゲーの強みだったりすると個人的に思う。小説は普段から読むのだが、やっぱりノベルゲー程こころに大きな領域で残ってはくれない。しかし、ノベルゲーは純粋に触れている時間が長いというのもあるけれど色々な要素が絡み合って生まれる複合芸術であるから心に大きく残ってくれる。これは、自分が小説を読む際に想像力が無いので没入できていないからとかだったら悲しい。