色々考えた結果、何も結論は出なかった。 4/4
シナリオを書き進めているのだが、過去の自分がプロットに則らずに勝手な過去改変を行ってしまった結果、物語の整合性を担保するために再度プロットを練り直す羽目になり、自分の知らないドメインの知識について文献を渉猟する必要性に駆られている。シナリオの表面的なバイト量は一向に増える気配を見せないが、自分としては必要以上に事を大きく捉える必要はないのかと思う。今現在の過去への後悔は、将来の自分を形作る事は分かっているし、知らない領域の知識をどの様に学んでいけばいいかというメタ的な観点からの気づきも得られる訳で、表面上の成果物ばかりに執心し、物事の本質を見失う事は避けたいと思うばかりである。特に、学習の方法を洗練させていく意識は後の人生に大きな影響を与えてくるものでは無いかと考えている。体系的な知識を構築するために、このサイトをアウトプットの場に仕立てあげたつもりだが、私は、果たしてその体系的な知識群を自分の頭の中で構築する事が出来ているのだろうか。以前、イラストを描いていた際には常に描き方に対しての反省を忘れなかったが、最近では、学ぶ姿勢に対して批判的な視点を欠いているような気がする。大学も3年目に突入し専門科目の比重も高まり、その場凌ぎの学習では歯が立たない状況になってくる。これをピンチと捉えるべきか、チャンスと捉えるかは自分次第であろう。大学で、専門科目を学習し、研究室に配属されて自分で問題を提起し、それに対する解決のアプローチを教授陣に助けを借りながらも自分で模索していく経験は、必ずしも全ての人間が体験できることではない。ここにどのような意義を見出すのか、私は何を考えるべきなのだろう。正直、創作と学業を両立させていく自信が無く、だからと言って創作一本で進んでいけるほどでも無いのではないかと思ったり、色々悩み、学業分野にも相応に力を入れようなどと中途半端さ溢れる決断を強いられている訳で少しナーバスになっている。私としては、創作を主体として活動できる事を望んでいるため大学を主流として生活する事はあまり望んでいないのだが、長いスパンで人生を観た時に、今の生活がどの様な影響を与えるのか考慮すると、専門的な学びや、その学び方を会得するという事は大切なのでは無いかと思い、だからと言ってモラトリアムを全て学業に専念する事は私の人生を考えると制約から難しそうというジレンマに陥っていたりする。要するに、相当な努力を強いられるという事でその覚悟を決めるためにこの文章を書いているという事である。大げさに書いているので実際は、その限りでは無かったりするのですがね。
人間に対する洞察を深める事。やはり、テキストベースのノベルゲーのシナリオを執筆していると、キャラクターというものを意識せざるを得ない。以前にも、魅力的なキャラクターを描写するためにどうすれば良いか悩んだ記憶があるが、やはり観察眼を研ぎ澄ませる以外に方法が無いのではと思う。様々なノベルゲームをプレイする中で、キャラクター的な魅力溢れる√は引き込まれるし、それでいて人生について得られるものが多い。Memories Off 2ndをプレイして、南つばめという主人公が1人暮らしをしている朝凪荘の隣に、学校の夏期講習で臨時講師として雇われた彼女が引っ越してくる。彼女は、現代国語の教師で、主人公は高校3年生で進路に悩める等身大の主人公として描写される。彼女の講義を受け―るシーンもあり、冒頭に、私の講義を聞かないでくださいという台詞を吐いて、授業を開始するシーンがあるのだが、学習は誰から学ぶ事ではなく、自発的に学ぶ事に他ならないという一家言が彼女にこのような科白を吐かせる。このMemories Off 2ndは複数のライターから構成され、ヒロイン毎にライターが割り振られている。私は、一番最初に彼女の√をクリアしようと思ったのだが、何故か、主人公の付き合っている同い年の姉の√に突入してしまった。それでいて、バッドエンドであるのだからいたたまれない。付き合っているという文章に、小首を傾げた人間がいるかもしれないが、このゲームは初手で、去年の12月に付き合い始めて7カ月目の天真爛漫な同い年の彼女がいる。そして、彼女以外に恋をすれば、それは必ず別れが伴う痛みと共に√を追える必要がある。そう、このゲームは「別れ」がテーマの2001年当時に発売されたゲームの中では先駆的な立ち位置に置かれた作品なのである。私は、この作品をプレイする前に、Leafより発売された「White Album」のアニメを視聴していた事は不思議な因果である。というか普通の帰着である。日本の作品はよく「出会いと別れのセンチメンタリズム」というキーフレーズとともに語られるが、このMemories Off 2ndでは、別れという部分にフォーカスし、必ず痛みを伴うドSな制作陣により作られたという点が特徴的である。また、本作では、この痛みを増強する装置として、選択肢に、好感度の上昇・下落がアイコンとして表示される仕組みが搭載されている。しかも、選択肢は曖昧なお茶を濁す様なものはなく、基本的に二極化した選択肢ばかりで、全ての人間を助けようとして、誰も助けられない悲惨なエンドを迎えない代わりに、誰かを必ず傷つける刃を以てして対峙せねばいけない。最初にプレイした際には、白河ほたるに対して常に懺悔をしながら、そして自分の気持ちに折り合いを付けれずに非力な主人公をトレースしていた。結局、彼女の姉と結ばれようと苦心するルートにと突入し、意中の女性との√を外れる事となったが、感動するエンディングを迎えられて非常に満足してその日を終える事が出来た。また、スタッフロールを読むまで複数のライターが関与している事実を知らなかったのだが、やはり、シーンごとに質のグラデーションがあるような気がした。アニメーションの世界では、原画マンから渡された成果物を、作画監督や総作画監督がチェックし、作中でのアニメーションの一貫性を保つという役どころが立っているのだが、シナリオを統括する役割の人は居ないのだろうか。最初に、南つばめと出会った際には、現代国語の教師らしい、詞的な会話が多く、緻密に練り上げられたシナリオであると思っただが、彼女以外の√ではその限りでは無かった。実際、彼女が現代国語の教師であり、シナリオ自体にその雰囲気が漂わされるのは勿論首肯できるのだが、少しその違いが目立っているように感じただけである。個人的には、アニメの脚本が複数人により手がけられている作品は総じてクオリティが高かったりするので好きではある。過去に観た作品だと、ちょびっツやゼーガペインなどがそれに該当するだろう。シナリオライターが変わるごとにアニメーションの演出が変わったりするケースなどは観ていて楽しかった。特に、ちょびっツに関しては、当時は、まだ名を馳せていたのかよくわからないが、花田十輝さんが参加しており、彼が脚本を担当している話数は、やはり他の話とは何か異なるものを感じたりした。脚本レベルで、物語の見え方がガラッと変わるのは意外とすごいことなのでは無いかと思ったりしている。
話は「別れ」をテーマにした作品に戻るのだが、White Albumを視聴して、何でこの作品がアニメとして人気にならなかったのかが不思議に思ったぐらいには、面白い作品だった。主人公の藤井冬弥は、過去のトラウマから、「女神」を希求するという話のだが、勿論、この「女神」というワードは象徴表現であり、それが一体にかというのが物語の根幹を貫く一つのテーマとして展開していく。主人公が大学生である事や特筆した才能を持ち合わせていない等身大のキャラクターとして描かれているため、境遇と言う観点からは、共感しやすいように設定されている。先述の通り、別れやすれ違いを全面に押し出したという点で、ギャルゲーの文脈では先駆的な立場にあった本作であるが、話を追うごとにその古典的名作たる所以の様なものを感じ取る事が出来た。特に、この作品は、演出的な側面で光るものがあると思い、演出家や監督の経歴について調べたが、所謂有名な作品を手掛けている風では無くて、やはりピーキーな作風を好む人物は、万人に刺さる事は難しいのだなと思い少しばかり悲しくなった。本作では、所謂浮気の描写が多く登場し、先ほどのMemoris Offと同様に、主人公には、交際している森川由綺がいる。しかし、彼女は、歌手としてプロダクションに所属するほどの実力の持ち主であり、彼女が人気を博すほどに二人の距離は広がっていく。また、彼は由綺の所属するプロダクションで雇われる事になるのだが、そこで出会うプロダクションの柱たる緒方理奈や、由綺のマネージャーである弥生さん等との出会いがどの様な展開をもたらしていくのかという点も、一つの気になるポイントである。そして、当然のごとく彼は周囲の女性を惹きつけて浮気をしていく訳だが、自分は何も不愉快な気持ちにならなかったが、レビューを参照すると、いくつものお気持ちが届いていた。自分は、あんまり浮気に対して神経質になるタイプでは無いので、彼らの気持ちに同情しかねるが、彼らには彼らなりの信念があるのだろう。寧ろ、自分は彼の満たされない欲望に対して憐憫さえ感じ、ただの浮気性な情欲に塗れた獣として捉える事は出来なかった。同じようなモチーフは、School Daysなどでも描かれていた。ただ、あっちの作品は、ちょっと欲情の仕方が獣だったので同じような憐憫の目線は持ち合わせなかった。というか、途中で視聴を辞めてしまった記憶がある。
ある程度の文章量を確保できるだけの筆力が手に入っている実感はあるが、内容的に一貫したテーマある文章を書けている感触が掴めない。個別の知識や体験を列挙し満足するだけの文章に堕している気がする。前も同じような悩みを抱えたが、今回の場合であれば、俎上に上がった「別れ」についての考察を首尾一貫して続けることで何か新たな知見を得る事が一つの到達地点として考えられる。また、派生した議論も、地球脱出速度を超えない程度の遠心力で、散らばらず議論のダイバージェンスを確保するに留まっていて欲しい。恐らく、自分の文章力云々が問題なのではなく、考える際の意識の持ちようが問題なのでは無いかと自分なりに分析している。実際、プログラミング等を学習している際は、脇に逸れる可能性が著しく低いため今現在、私が悩まされている様な事は無い。それを疑似的に作り出すか、自分は放っておくと直ぐに、わき道にそれて首尾一貫した議論が出来なくなるという特性を自覚すべきなのだろう。前回は、一つ「愛」をテーマにして何か得られるものはないかと考えていたのだがいつの間にか、そんな話をしていた事さえも忘れていた。一応、以前にテーマを備え一貫性を備えた文章が書けていない点が自分の中で1つの課題であるという事を記述した覚えはあるので、記事横断的に前回以降の自分の考えを忘却せずに持ち合わせる事には成功している。自分個人としては、このサイトを一つの知識のネットワークとして構築して、所謂体系化された知識を構築する事を目指しているのだが、今現状の考えでは難しそうではある。だが、問題意識は生まれているので厭世的になる必要はない。以前も言及していたが飽きるという感情や、現状に満足できないという感情はネガティブなものではなく前身のための必要な生理反応であると考えている。しかし、昨今では刺激に溢れ、飽きるという感情に対して向き合う時間が少なくなっている点を指摘した。そのため、外部から隔離され、ある種自分の内面と向き合えつつも、それでいて完全に内部に閉じられたコンテンツではないこのブログが上手く作用しているのではないかと考える。やはり、同じような事を考えると自分が持ち合わせている問題点が浮き彫りになり何をすべきか考える事に頭が向くのでこのブログの執筆活動は引き続き行っていくべきだと考える。しかし、2年生の段階では全くと言っていいほど更新する事が出来なかったので、学業で頭を一杯に溢れさせない予防策を事前に考える必要があるだろう。自分は、とにかく押しつぶされると跳ね返す事が出来ない非力なバネが如き存在なので、自由に自然長のままで居たいと常々思っているのだが、社会はどうもそれを許さないらしいから悲しい。だから、自分はそれにあがくようにして力をつけるしか生存の道は開かれない。
大学が始まってからの生存戦略について考える。春休みは良かったよ。懐古厨と化した私であるが、やはり長期休暇ほどに自分に羽根を与えてくれる期間は無いのだと思う。まず、以前までと異なり今学期からは、専門の色を帯びた講義を沢山受けないと進級できない。これは困ったことである。私は、積上げながら学習する事に勿論慣れていないため、専門科目に太刀打ちするためには、今までの学習を積み上げた上で更に高度な知識をかみ砕いて自分のものにする必要がある。特に、数学分野はサボり散らかしたので、微分積分学から線形代数学といった教養数学レベルをまずは抑える必要がある。このような事をB3で嘆いているの俺だけ。悲しいかな自分は、文系として大学に入学してしまったので絶賛苦しむ事になっているのだが、一応、復習は春休みの段階から始めている。(理解しているとは言っていない)この前、予備校のノリで学ぶさんが、大学生の数学の学び方に対して、従来の受験において支配的な価値観であった「一冊を極める」という考えを捨てて、「理解したら勝ち」を念頭に置いて学習する事が肝要であるという助言を胸に抱いて絶賛頑張っている。来期からは、所謂純粋数学とは異なる応用数学の一分野を集中的に学習する事になるので覚悟を決めないと普通に留年とかいう悪くないオチが待っている。個人としては、留年して一年間、創作に費やすのは有難い限りなのだが、お財布には限りがある事を知っているので、親からも頑張れよと冷たい目線で釘をさされている。これまでの反省として、自分は、専門科目に対する学び方を修正するという視点に欠けていた。一年の頃は、大学での専門科目という色香に惑わされて純粋数学を極めようと腐心していたが、結局の所、何も理解せずに高尚なテキストを眺める自分に恋していたので、まずは身の丈にあった学術書を選び、分からないをそのままにしておくべきでは無いだろう。こと理科系の分野においては初学者以外の何物でもなく、抽象的な学問は何も理解していないという自覚を忘れるべきではない。正直に打ち明けると、今までは何とかその場凌ぎでギリギリ単位をもぎ取れたが、次は多分、今までの戦い方をすると確実に、転落という名の単位を目撃することになる。まじで、どうやって知識や概念を積み上げていけばいいんや。LaTeX使ったらいいか?iPad使ったらいいのか?正妻を欠いて精彩を欠くでお馴染み浮気者です。
テキストベースの論考に一つ批判を加える。この記事はWindows標準のメモ帳を利用して執筆されているのだが、追加できる情報量が少ないことが利点でもあり、良くない点でもある。手軽さは、執筆を始めるハードルを下げる事に寄与しているが、考えながら書くという行為を狭める要因になっているのではないかと思い始めたり。.txt形式のファイル以外に、.md形式のファイルがあるのだが、マークダウン形式の場合は、情報に濃淡を付け加える事が可能で、それがエディタの助けを借りる事で、執筆をしながらそれを感じる事が出来る。エディタの能力はその個人の能力を規定するとは、Vimerの言葉ではあるが(知らんけど)、使うツールを吟味する事は、今後知的営為を行う人間としては、避けては通れない道ではないだろうか。ツール自体に関心があるのではなく、思考という行為を考えた上で、より様々なアイデアを生み出すためにはどのような補助が必要かどうかを選定基準に据えるべきだろう。その点を考えると、ビジュアルで考える事がこのメモ帳ではできない。空間的な広がりを持ち合わせないため、画像を挿入したりグラフを用いた思考法が出来ない点が欠点である。恐らく、昨今のエディタや便利ツールは、従来のテキストエディタの問題点を継承し作られたものが多いと推測される。そのため、エディタから思考において何が必要とされるかを推察する事も出来るだろう。また、どうしてもテキストエディタにこだわりたいのであれば、ビジュアルを頭の中で描写させる言葉を手繰るアプローチなども考えられるだろう。あと、今このようにして解決策を模索中な訳だが、書きながらでは考えられない事もあるのではないかと気づいた。熟考というプロセスが出来ない点も一つテキストエディタでブログを執筆する際に零れ落ちる事かもしれない。特に、パソコンを使い始めてからタイピング速度が異様に向上し、思考速度よりも早い執筆速度が実現するほどなので、敢えて走りすぎない執筆を心掛ける事でも何か見えてくるのかもしれないと考える。
一応、過去の記事の中では最も長い文章となるが、やはり一貫性が欠けているが、文章能力がある程度身についてせいで、中身の無い事をレトリックを駆使して、一生書き散らす事が可能になってしまいこのようなモンスター文章を生み出す事になっているのではないかと思われる。まじで大学どうしよ